はじめに
『仮面ライダーゼロワン』という作品が終わろうとしている。
平成ライダーの集大成であった『仮面ライダージオウ』からバトンを引き継ぎ、令和の新ライダーとして華々しくデビューしたこの作品は、当初多くの期待を寄せられていた。事実、第1話の興奮を語る者たちはどこの感想サイトを覗いても存在していた。
しかし、最終回を迎えようとする今、少なくはない数の人たちから忌み子のように扱われている。あの日、令和の象徴として祝われた時とは大違いの待遇だ。
どうしてそのような事態に陥ってしまったのか。私なりに考えたことをここに記したい。
①仮面ライダーゼロワンとはナニ?
『仮面ライダーゼロワン』とは、令和元年9月1日に放映開始した特撮テレビドラマである。
令和ライダーの第一弾として、AI(人工知能)がもたらす社会への影響は何か、そのうえで人はどう生きるのかをテーマとしている。
また、昭和ライダーからガラリとモデルチェンジをした平成ライダーと比べ、過去と比較するのではなく”未来”や”子供たちの生きる世界”を意識しているという。*1
近未来的なAIを主体とし、未来を見据えた作品にする。平成から令和という新時代を迎えるにあたって、新たな出発を志した作品だと言えるだろう。
②コレが主人公の欠点
『仮面ライダーゼロワン』の主人公は、売れない芸人だったが祖父の遺言により若くしてAIテクノロジー産業の最大手「飛電インテリジェンス」の社長に就任した男。名を飛電或人と言う。
ヒューマギア(AI搭載型人型ロボット)を売り出し、飛電インテリジェンスを一代で大企業まで成長させた創業者の飛電是之助を祖父とし、父親とうり二つの見た目をしたヒューマギア飛電其雄の元で育った。
幼いころに起きた大事件デイブレイク*2によって其雄を亡くし、彼の遺言から人やヒューマギアを笑顔にするという願いを持った22歳の若者は、あまりにも共感しづらい人物だったと考える。
或人は作中においてヒューアギアに肯定的な人物として描かれている。「ヒューマギアは人類の夢」というセリフは、彼の思想を端的に表していると言えるだろう。
ゼロワンの1クール目は腹筋崩壊太郎*3やニギロー*4といった、人の心に触れてシンギュラリティに達したヒューマギアーーー「人類の夢」が敵役たる滅亡迅雷.netによって悪用され破壊される悲劇を描いていた。
また、その敵役だった滅亡迅雷.netの構成員もヒューマギアであったことで「夢」を自分の手で破壊しなければならない悲劇性を高めていたとも言える。
第三者によって暴走させられ壊される哀れな機械。ヒューマギアは1クール目においてはそういう存在だった。
そして、その悲劇は滅亡迅雷.netの打倒によって幕を閉じた。
しかし、2クール目においてヒューマギアはただ哀れな存在ではないことが視聴者に突きつけられる。
滅亡迅雷.netによって強制的に怪人にされるのではなくハッキングによって暴走するヒューマギアや、自らの意志で人類滅亡を願う個体が登場したことで、ヒューマギアが良いものに見えなくなってしまった。
「ヒューマギアは人類の夢」だと主張を続ける或人の努力もむなしく、ヒューマギアが一体、また一体と悪意によって暴走し、サウザーに撃破されていくお仕事5番勝負は視聴者の或人への共感を奪うにはじゅうぶんすぎる戦いだった。
すなわち、この時点で視聴者はヒューマギアが夢のマシンだとは到底思えなくなってしまったのである。
一方で、視聴者が或人の主張を理解するための手段もあった。
それは作中において人間生活を営むのにヒューマギアが絶対に必要だと改めて証明することだった。
例えば、病院の夜間勤務を行っているのはすべてヒューマギアであるだとか、インフラの管理を一任されているだとか、危険区域への調査をしているだとか、とにかく社会に完全に根付いている様子を今一度描写し、ヒューマギアが廃棄されることに反感を抱く民衆がいることがわかれば、視聴者も感情の面では納得できずとも作中では夢のマシン足りうるものだと理解できたはずだ。
だが、作中では2クール最後に行われた国民投票で廃棄派が大多数を占める結果となり、ヒューマギアを廃棄する人々が描かれた。そのため、社会にヒューマギアが結局どこまで浸透しているか視聴者にわかりづらくなってしまった。
こうなれば夢のマシンどころか、作中世界の人間たちにすら必要とされていない物体であることを強く認識せざるを得なくなり、より一層或人への共感ができなくなってしまったのである。
なぜそこまでヒューマギアを愛し、擁護するのか。
序盤や令和ジェネレーションズでその一部は描かれたものの、明確な答えを視聴者に提示できないまま、お仕事5番勝負は幕を下ろしてしまったと言えるだろう。
主人公である或人への共感ができなければ、好きになることは難しい。
そして、主人公とは作品の看板である。主人公を好きになれないのであれば、作品を好きになることは難しい。
『仮面ライダーゼロワン』という作品が厭われている理由のひとつは、主人公を好きになれないからという至極単純なことなのだと考えられる。
③カレこそが批判されがちな黒幕
作品について語るときに、主人公と並んで語られるべき存在と言えばライバルキャラや黒幕キャラである。
では、『仮面ライダーゼロワン』のライバル・黒幕とは誰だろうか。
彼は1クール目終盤に姿を現し、2クール目で本格的に物語に関わり始めた。
そして、ヒューマギアが負のシンギュラリティを起こし暴走する原因を作った、いわば黒幕と言える存在だ。
また、飛電インテリジェンスと敵対するZAIAコーポレーションの社長であり、ヒューマギアを否定する者なので、立場上主人公の或人に対するライバルキャラクターでもあると言えるだろう。
フィクションにおいてライバル・黒幕は時に主人公の人気を上回り、作品を牽引する存在になりえる。
例えば『ゼロワン』と同じプロデューサーと脚本家がタッグを組んだ『仮面ライダーエグゼイド』の檀黎斗/仮面ライダーゲンム、やはり同じPの『仮面ライダービルド』のエボルト/仮面ライダーエボルは強烈なキャラクター性で人気を博した。主人公を妨害しようが、どれだけ外道なことを働こうが、人気を補強する要素になりえた。
彼らのように天津が人気を得られれば『ゼロワン』の評価はまた変わっていただろうが、残念ながら現実はそうではなかった。
これもまた或人と同じで、天津が作中で起こした数々の事件の動機が納得しづらいことだったからだと考えられる。
彼がヒューマギアを嫌うのは、そのヒューマギアを製造した飛電インテリジェンスへの愛憎があったからである。では、なぜ愛憎を抱いていたのかと言えば、幼いころの虐待じみた仕打ちによって完璧主義になった天津は、理想主義的な経営をする飛電インテリジェンスが許せなかったから。
是之助を尊敬していた天津からすれば、血縁者という理由だけで飛電インテリジェンスの社長に選ばれた(ように見える)或人への嫉妬心や敵愾心を原動力として飛電インテリジェンスと対立するのは理解できる。が、そのために会社と関係ない大勢の人を巻き込む必要はあったのだろうか。働いた悪事のスケールに反して動機が弱いように思える。
肝となる動機をもっと掘り下げることができたのであれば、アーク建造に関わったことや登場人物たちへの仕打ち、お仕事5番勝負での横暴によって嫌われることはなかったであろう。
看板である主人公を好きになれず、またライバルにも作品を牽引をするだけの魅力が足りていない。『ゼロワン』が2クール目に勢いを落としたのはこれが影響しているのではないか。
④脇を固めるヤツラ
主人公とライバルの魅力が少ない一方で不破諫/仮面ライダーバルカンは『ゼロワン』という作品の中では人気な方のキャラクターだと言える。
それは「なぜ戦うのか」という点が比較的丁寧に描写された上に、2クール目において狂言回しを担当、本筋が停滞しがちだった中で視聴者からの好印象を得たからではないだろうか。
また、ヒューマギアへの憎しみを乗り越えて、真に戦う理由を見出すという成長の要素が見られたことも関係しているだろう。
終盤、ヒューマギアへの憎しみのあまり周りが見えなくなってしまった或人を、かつて同じようにヒューマギアを憎んだ不破が止めようとする展開がおおむね好評を得たことを考えると、彼のキャラクター描写は成功と言えるだろう。
一方で、不破の同僚であった刃唯阿/仮面ライダーバルキリーは割を食ったと言わざるを得ない。A.I.M.S.技術顧問として登場し、ところどころ不穏な様子を見せつつも表向きは或人の協力者として活躍したが、2クール目に入ってからはただ上司である天津にいいように使われるだけの役になってしまった。
終盤に入る前に「テクノロジーは人に寄り添ってこそ」と天津に反逆するのだが、その信条は序盤に一度本人の口から語られるのみであり、積み重ねが少なすぎると言わざるを得ない。その上、テクノロジーを悪用していると言える復活した滅亡迅雷.netに加担する、天津への反逆を手伝ってくれた不破の人生をつまらないと切り捨てるなど、まともな神経をしているとは思えない言動もあって、彼女に対してパワハラを受けていたことへの同情はともかく好意は抱きづらい。
『ゼロワン』のメインヒロインで、或人の秘書であるイズ。
社長秘書という立場やメインヒロインという役割上、画面に映り細かい仕草が視聴者の目に留まることが多い。
或人に好意的であり、シャイニングホッパープログライズキーの作成のためにその身をささげようとしたことや、シミュレーションの中でとはいえ或人を喪った際には涙を流したこと、或人をラーニングすればヒューマギアと人類が分かり合える未来を築けると滅に言ったことからそれは明らかである。
また或人の方もイズが迅を煽り散らかしたことでスクラップ寸前になった時に必死になって治そうとしたことや社長の座を奪われ裸一貫になった状態でも天津に破壊されそうになったイズをかばうなど、彼女をただの秘書として以上に大切に想っていることがわかる。
全編通して、或人とイズがお互いを想う気持ちは丁寧に描写されていると言えるが、それに反比例してか『ゼロワン』の他のレギュラー・準レギュラーの描写は少ない。
上にあげた以外では滅/仮面ライダー滅ぐらいしか全編通して登場しているキャラクターがおらず、だいたい長期離脱しているか、登場が遅いかのどちらかである。
⑤ワタシの結論
以上のことから『ゼロワン』が不評な理由のひとつとして私が出した結論は『メインキャラクターの描写が少ない・足りないために視聴者とのギャップが生まれてしまった』ということである。他にもあるとは思うけどこの記事の本筋ではないので書かないこととする。
いくら登場人物が心を痛めたり昂らせてもギャップがあっては感情移入しづらいし、物事の好転によるカタルシスが生まれづらい。常に滑り続けている漫才やコントのようなものである。
描写が足りなくなってしまったのは、複数の理由があると考えられる。
第一にお仕事5番勝負でゲストや仕事を紹介するのに集中してしまい、尺が足りなくなってしまったこと。これについては前々から批判されていたが、終盤になってそのしわ寄せがきてしまった形になる。お仕事5番勝負の裏でも本筋はある程度動いてはいたものの、このパートにおいての主役ともいえる天津について多く描写できなかったことは、味方になった時の唐突さに影響を与えてないとは言えないだろう。
第二に、COVID-19……一般的に新型コロナウイルスと呼ばれる感染症のせいで撮影が停滞し、5話分を総集編をあてがわなければならなくなってしまったこと。この5話があったからと言ってスタッフが描写に尺を割くかというのはまた別の問題なのでここではこれ以上言及しないが、とにかく従来のシリーズに比べて放映できる話数が減ってしまったことは作品にとって不幸としか言えない。
第三に、扱う題材によるものだと言える。
『ゼロワン』への批判の中で私が目にした言説としてひとつあげられるのは「『ゼロワン』の問題点は『エグゼイド』の頃から存在していた」というものである。
『エグゼイド』は賛否どちらかと言えば賛の意見をよく目にするが、思い出してみると確かに私が思う『ゼロワン』の問題点である描写の薄さは『エグゼイド』でも見られていた。
というのも、『エグゼイド』も主人公の宝条永夢の背景については描写が薄いのである。まったくないというわけではなく、序盤や平ジェネで一部は語られるのだが、本格的な掘り下げがあったのは本編とVシネマ展開後の小説版だった。
医者である永夢は「病気を治療したうえで患者を笑顔にすること」を行動原理としている。
一見或人と似ているように感じられるが、 そんなふたりには決定的な違いがある。
ヒューマギアを守ることに視聴者が懐疑的になってしまうのと違い、永夢が医者である以上「病気を治療したい」と考えることは妥当である。医者が病気を治療することは当たり前のことなので、視聴者としては共感まで行かずとも理解はしやすい。
しかし、医者がこの世にたくさんいるのと違い、AI搭載人型ロボットは普及しているとは言えない。研究はされているし、採用している企業もあるが、まだ一家に一台、企業につき一台、という時代ではない。
つまり、ヒューマギア(≒AI搭載人型ロボット)は我々視聴者に身近な存在ではないため、ヒューマギアの悲哀やヒューマギアを守ろうとする或人にそもそも共感しづらいのだ。
医療という現代的なテーマだったために最低限の描写でもどうにかなった『エグゼイド』と、まだ身近ではない近代テクノロジーをテーマとしてしまったために最低限の描写では説得力に欠け、欠点が浮き彫りになってしまった『ゼロワン』。
扱っている題材の違いが、そのまま作品の出来や評価につながっているのだろう。
もし、数年あるいは数十年後にAI搭載人型ロボットが普及している未来があったとして、そこで放映されたとしたならば、もっと違った評価になるのかもしれない…………。
終わりに
この記事を投稿したのは最終回の放映日の前日なのだが、一年間追いかけてきた作品が終わりを迎えるにあたって、ふと振り返りたくなってこのような記事を書かせていただいた。
たとえ良作だったとしても、駄作だったとしても、終わりを迎えるというのは寂しいものである。しかし、ひとつの物語が終わりを迎えても、また新たな作品が我々を楽しませてくれるだろう。その新たな作品を楽しむにあたってこの記事が一助になれれば幸いである。
終わり。